「優しい。大好き。優しい。大好き。優しい。大好き。」
「顔、かわいい。顔、かわいいでしょ。皆、そう言う。」
先日俺も参加したコンサート&クリスマス会を主催したフリースペースへ週に何回か通ってくる知的ハンディキャップを持つ20代半ばの女性(Hさん)の言葉。
数年前から、お母さんと一緒にたまに来ていたので、お母さんとは時折会話することもあった。ところが、1年程前に、お母さんが急逝されてしまった。彼女の面倒はお母さんが付きっ切りでみていたらしく、お父さんと彼女が残されてしまって、今後どうしようかということで、特定の曜日に、ヘルパーさんにフリースペースまで連れてきて貰って、後は、フリースペースの仲間やボランティア、スタッフの人達と一緒に過ごすようになった。
最初の頃は、半泣き状態で、いつも「お母さん、死んじゃった」を繰り返すばかりで、なかなか周りの人達と意思疎通を図ることができなかった。しかし、いつの頃からか大分落ち着いてきて、知った顔の人達とは会話が成立するようになって来た。今では、すっかりフリースペースにも馴染んで過ごしている。俺の顔を見かけると、「ああ!」と言って手を上げてニコっと笑う。
「優しい。大好き。」は、彼女の面倒を非常によく見てくれる青年に対する言葉である。彼もまたフリースペースに随分昔から通っていた青年である。今は求職中のため、時間のある時に、フリースペースへ来ては色んな人達の相手をして過ごしている。傍から見れば、どこにでもいるごく普通の今風の青年である。結構、格好よくて異性にももてそうな感じの青年。しかし、内面は非常に繊細で悩み多き青年でもある。だからこそ、フリースペースへ通うことになったのであろうが。
Hさんは、昨日、なぜかお弁当の中に入っていた柿を俺にくれた。もうお腹が一杯で食べられなかったのか、俺が欲しそうな顔をしていたからか、分からないが(笑)。
「食べちゃっていいの?」と聞いたら、「うん」と頷いたので食ったら、無性にはしゃいでいたな(笑)。何が嬉しかったのだろうか?(笑)
ここに集う不登校生、ハンディを持った青年、悩み多き青年、皆繊細で傷つきやすいがゆえに、殺伐とした社会に馴染めないでいる。傍から見れば、今時、珍しい好青年で礼儀正しい、優しい人が多い。こういう性質だから弾かれてしまうとしたら、今の社会がおかしくないか?
彼ら・彼女らと接する時には、俺も本当に気持ちの落ち着く時間と空間を与えられる。仕事の場面やその他の社会生活では、人を陥れたり、騙したり、妬んだりといったギスギスした事柄がゴロゴロしている状態で緊張を強いられるが、ここでは安心して、そして、信頼して時間を過ごすことができる。
先のクリスマス会の最後の挨拶として主催者の方が次のような趣旨のことを仰っていた。
「全ての人達は、皆、大きな愛に包まれています。それに気付かない人々もいるかもしれませんが、私はそう信じています。少なくとも、そう信じる人達がここにはいるということを覚えておいて下さい。」
主催者の方は、俺の10数年来の友人で、素晴らしい人格の持ち主だ。俺の数少ない尊敬する人物である。決して世間から脚光を浴びることもなく、経済的には常に苦しくとも、自分の為すべきことを自覚して、淡々とその為すべきことを為そうとし、そこへ集う青年達を暖かく受け入れ、見守っている。
俺は、そういう人達が無性に好きである。そういう人達の周りにはまたそういう人達が集まってくる。そこで、色んな素晴らしい人達と接する機会を得ることができる。ああ、先のクリスマス会では、ある冤罪被害者の救援活動を一緒にやっている仲間の奥様と偶然お会いした。身体のハンディキャップを持つ人達の作業所をやっていらっしゃると言うことで、そこのメンバー二人を連れて参加されていた。う〜む、気さくで良い人だ。やっぱり、あの人の奥様だけのことはある。やっぱり、人間と言うのは、個々の属性は違えども、本質的な部分では同じような性質の人間を自分の周りに惹き付けるのだろうか。逆に、本質的な部分が異なる人間同士では、本当に安心・信頼した付き合いはできないのかもしれない。まあ、何が本質かは見極めたり確認したりするのは難しいから、感性によるところが大きいかとも思うが。
社会全体から見れば、そういう人達は少数かもしれない。また、フリースペースに通うような青年達に対しては、社会の偏見やレッテルが多いのかもしれない。
しかし、俺は彼ら・彼女らの人間性には心惹かれるものがあるし、好きなんだよなあ。
だからこそ、逆に、彼ら・彼女らが弾き出されるような社会のあり方に疑問と怒りが沸くのである。それを少しでも改善したいとの思いで、様々な活動に身を置いている訳である。そこで出会う人達も同じ思いを共有できる人達が多い。大変なことも多いが、そういう人達が好きだからやっているということも多分にあるな。
そういう思いがあるからこそ、妙な偏見やレッテルで、知ったようなことを言う奴らには怒りも沸く。仲間のことを知りもしないで、つべこべ言う奴らにも俺のことを言われるよりも怒りが沸く。
センスの違った人間同士が理解し合うのは、非常な努力と根気が必要だが、人間同士の付き合いの密度が薄くなった今の社会では難しいな。難しいからといって諦めるとかいう話ではなく、俺は俺の感性で、自分が正しいと思うこと、自分にできることを愚直に続けるつもりだ。同じ山の頂を目指すにも、ルートは幾つもあるだろう。自分にあったルートで登ればいい。ルートが違うから、あっちは駄目だ、どうだという必要はないだろう。俺はそう思う。
まあ、それもセンス如何で、結論は変わるだろうが。
熱いけれども不器用で、これじゃいかんと思いつつも、どうしたらいいか分からなくて、だからと言って何もしないという訳にはいかなくて、うまくいかねえなあと自覚・葛藤しながら、周りの人間からは冷ややかに見られつつも、それでもそうしたい、せざるを得ない・・・という奴らが俺は好きなんだよ。
まあ、このシンパシーは俺固有のものだから、単にそういうことというだけの話だが。
2005年12月13日
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